海津町歴史民俗資料館内の掘田



  海津町役場の方向に進んでいくと、お城のような建物が見えてきます。

 それが海津町歴史民俗資料館です。「ぽん」はこの歴史民俗資料館に行

 って来ました。実は、近くにあるけど、中には入ったことがなくて、一

 度は行ってみるのもいいもんだということでね・・・。       

  さて、駐車場に車を止めて入っていくと、「堀田」が右手にあります。

 これは珍しい!!                        

  「堀田」について、立て看板から説明しましょう。

  「堀田」は低湿地の生産性を高める土地利用の方法の一つです。

  低地の湿田の一部の土を順に掘り上げ積み重ねていくと、地下水位が高

 いため、掘ったところは短冊形の池沼となります。これを「掘潰れ(ほり

 つぶれ)」といいます。

  一方、土を掘り上げたところは、これも短冊形のした少し高い耕地とな

 ります。この耕地を「掘上田(ほりあげた)」と呼びます。そして、この

 掘上田と掘潰れの2つをまとめて「掘田」といいます。        

  現在では全く残っていませんが、海津町では昔は平原(ひらはら)地区

 から南の油島地区まで、たくさんの掘田がありました。櫛の歯のような掘

 上田がどこにでも見られ、掘潰れが網の目のようにつながっていました。

 それが高須輪中を北から南へ流れる大江川や中江川やその支川となる幹線

 水路(江)と直結していました。そのため、交通手段は田舟による水上交

 通が中心でした。

  ほとんどの農家は舟を持っていて、農作業の往来はもとより、農具、肥

 料、収穫物の運搬や日用品を町の商店に買いに行く時にも舟を用いました。

 舟に乗っていく花嫁さんもありました。

  70束の生稲を積める舟や、池から泥土を掘り上げて運ぶ舟など、いろ

 いろな種類がありました。掘田江戸時代の後期から明治時代にかけて、盛

 んに作られましたが、ここでの農作業は苦しいものでした。掘上田では、

 崩れた法面(のりめん)を補修する仕事や、掘潰れの底の土を「鋤廉(じ

 ょれん)」という農具ですくい上げ田面に置く重労働がありました。また

 近くの池や沼の底の泥土を7〜8メートルもある長い柄のついた「長鋤簾」

 ですくって舟に上げ、掘上田に運ぶというたいへんな重労働もありました。

  また裏作には、掘上田にさらに土を高く掘り上げた「くね田」という高

 畝(たかうね)を作りました。約1メ−トルほどに土を積み上げた畝で麦、

 菜種、馬鈴薯などを作りましたが、これもたいへんな重労働でした。

  太平洋戦争後、土地改良や埋め立てが進められて、昭和40年代には、

 掘田は姿を消しました。今は見事な水田が広がり、農作業は機械化されて

 います。

  しかし、かつての苦しい農業の時代を忘れないために、その歴史の証と

 してこの掘田が復元されています。